プロフィール
略歴
- 1961年長野県生まれ。
- 県立諏訪二葉高校卒業、愛知県立大学外国語学部フランス学科に学ぶ。
- 党国会議員秘書8年。 なごみ保育園・なごみ学童ホールの父母会長などつとめる。
- 03年に市議初当選、母と子の願いを市政にと全力。
- 現在市会議員3期目。総務委員会(総務局、総合企画局、財政局、教育委員会)委員。 川崎市都市計画審議会委員。
- 家族は夫、1女。菅稲田堤在住。
生まれたところ
長野県岡谷市で18歳まで、目の前に諏訪湖が広がり、その向こうに八ヶ岳と富士山がくっきりと浮かび上がる風景を毎日見て暮らしました。
結婚で上京したときに「山が見えるところに住みたい」といったら、夫が迷わず多摩区を選びました。これが多摩区との出会いです。
女子高と大学で
諏訪二葉高校は女子高でした(現在は共学)。部活はバスケット。自治の気風あふれる学校で、生徒会長になった年に、文化祭を生徒の声を反映した新しい運営方法にしようととりくみました。
進学した県立大学で学費値上げ反対の署名運動が始まり、たまたま私が愛知県議会で趣旨を陳述しました。県議会で学生が話すのは初めてだったそうです。しかし、この署名に賛成してくれたのは、日本共産党だけ。共産党に触れた最初でもありました。
母親になって
子どもは高校生になりました。昨年は、PTAの広報委員長になって、先生やお母さんたちと楽しい交流ができ、まちではスーパーで小学校や中学校の頃のお母さんたちと長話しして、情報交換をしています。「自然教室の食事代が有料になって、高い!」「私立に行くにはどれだけお金が必要か、とてもたいへん」など、こういう時の話が質問に生きています。
川崎は、ほんとうに子育てしにくいまちになったことを、ずっと実感してきました。生まれた時、保育園はいっぱいで、一年間無認可保育園に通いました。夜、子どもが熱を出して、お財布を見たらお金がない!コンビニでお金が下せるという時代ではなく、朝までおろおろと待って、銀行によってから病院に走った時の思いは、今でも忘れられません。
子育ては、一人ぼっちでは本当につらいですね。私は、産休明けから保育園に預け、学童保育を利用して、まわりの方たちに支えられて、何とか育ててきました。
風疹がはやって、どうしても仕事が休めないというとき、「うちも風疹で休んでいるから、連れておいで」といってくれた仲間たち。子育ての思いをいっしょに涙を流して共感してくれた保母さん。私がしてもらったように、この町に住む若いお母さんを支え、社会の暖かい輪のなかで子育てができる環境をつくりたい。この思いが、私の議会活動の大きな原動力です。
モットーは「あきらめない」
日本共産党の国会議員の秘書をしていたとき、そして候補者として地域で活動していた時、先輩の議員から学んだことは、「あきらめずに粘り強く求め続ければ、願いは実現する」ということでした。
障害者のみなさんが、障害者自立支援法は憲法違反だと不自由な体を押して大きな集会を行い、訴訟に立ちあがった姿は胸を打ちました。その思いにこたえたいと市議会でも毎回毎回取り上げ続け、負担軽減を少しずつ図ってきました。国もついに大幅な負担軽減に踏み出します。
多摩スポーツセンターに温水プールをつけてほしいという運動も、中野島駅を橋上化してほしいという運動も17年かかりました。折にふれ、署名を集め、議会で取り上げ続けて、温水プールは23年3月に完成予定です。中野島駅も橋上駅舎化のめどがたち、地域では大きな喜びの声が上がっています。
最初は小さな声でも、市民の声であるからには、どんなに壁が厚くても、ねばりづよく、よく勉強してあきらめずに行政に迫っていくこと。それがモットーです。
どうして共産党なのか
「あんた、共産党でなければいいんだけどなあ」と、言われることがあります。
いえいえ、共産党だからがんばれるのです。
共産党の人たちと知り合って、いちばんいいなあと思ったのは、「人のために何かすることをいとわない」ことでした。「みんなが幸せになるように、自分が何かする」人たちの集まりが日本共産党です。日本共産党員であることは、私の誇りです。





