井口まみ
井口まみ井口まみ

石巻市に行ってきました

IMGP0100もう4か月になります。現地の方たちも「もうずいぶん片付いてきた」といわれました。でも、やっぱり声が出ませんでした。もっとできることがあったのではないか。もっと助かる命があったのではないか、と思わずにはいられませんでした。そして、今できることをもっと早くするべきだ、と強く感じてきました。

IMGP0138共産党川崎市議団として、被災地へ行きました。全体の日程は2泊3日だったのですが、私は地元の仕事の都合で3日目の朝には帰ってきてしまったので、ついた日の午後と翌日の1日半しか現地にいることができませんでした。1日目は、石巻市、女川町の被災の様子をバスで視察しました。何も残っていない土地。ただ集められた瓦礫の山。壁という壁がすべて流されて、ただ柱と屋根があるだけの真新しいきれいな家。基礎ごとひっくり返ったビル。行けども行けどもそういう光景が続きます。

IMGP0153在校生の6割の命がなくなった大川小学校にもいきました。目の前は北上川。後ろは切り立ったがけ。逃げるところがなかったのです。道路わきに、集められた子供たちの服や靴などが持ち主を探して並べられています。そのわきには堅牢であったはずの北上大橋がずたずたになっていました。ものすごい力で押し流されていったたくさんの命が形として迫ってきました。

IMGP0167翌日は、仮設住宅に入った方たちに、お話を聞きに入りました。「避難所ではいかがでしたか」「困っていることはありませんか」とうかがうと、次々と訴えられるのです。

避難所では丸2日間、毛布も食べるものも飲むものもなにもなかった!!ひどい!と思いましたが、考えてみれば、川崎だって、防災備蓄倉庫は原則として中学校にしかありません。避難所は140か所以上ありますが、その3分の1なのです。そのなかに毛布やアルファ米がしまわれていますが、小学校の避難所には来ない可能性がある。川崎も同じなのです。

難病で寝たきりの奥さんを必死で助け上げて九死に一生を得た方の話も聞きました。本当に奇跡的に助かりましたが、避難所で九日間も暮さなければならなかった。痰の吸引が必要なのに、吸引器がない!!信じられませんでした。本当に何かあってもおかしくない状態でした。

仮設住宅はバリアフリーではありません。障がいがあってお風呂に入れない方は、家族にてすりや踏み台を作ってもらうまでお風呂に入れなかった。

水産加工の工場を持っていた奥さんは「借金をして工場を新しくしたばかりだった。すべて流されて途方に暮れているのに、銀行から返済をどうするかという電話がくる」といいます。この四か月で手に入った現金は義援金の35万だけ。あとはどうなっているのか、これからどうすればいいのか、全く考えれらない。

こういう人たちを一日も早く救うのが政治の仕事ではないのか。総理がやめるだの、やめないだの、消費税を上げるだのと言って騒いでいる人たちは、この現場を知らないのだとつくづく思いました。もし知っていれば、それを放置していられるはずがない。早くお金を分けよう。早く生活再建ができるよう工夫しようと思うはずだ。その心がない、と本当にいらだちを感じました。

わずか一日半、それも本当に身を粉にして役に立つことをしたわけではありません。さっさと帰ってしまって申し訳ないと思います。でもそれでも感じたこんなにたくさんのことを、この川崎でしっかり役に立てなければならないと肝に銘じてきました。