井口まみ
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福島県に視察に行きました~涙と憤りの2日間でした

IMGP1342 人がだれもいないまちをはじめて見ました。1年前の地震の傷跡がそのまま残っているまち。原発事故さえなかったらこんなはずではなかったのに。悔しさと怒りがあふれます。初めて福島県に行き、原発事故の深刻さをまのあたりにしてきました。

初日は福島市で、県庁の職員の話を聞き、共産党県議団と懇談をしました。県の職員に「他の自治体に何を一番してほしいですか」と聞くと、「全国に散らばった避難者の支援が行き届かない。原発からの距離によって国の支援の内容が違うので、同じところに避難していても、支援の内容が違うということが起きる。個別に各自治体間で相談していただきたい」というのです。また、住民票を移してしまうと、被災者としての支援は受けられなくなります。そういう人たちまで面倒が見られないというわけです。それっておかしいのではないでしょうか。万一過酷事故が起こればこうなることはわかっていました。それに目をつぶり安全神話を振りまいてきたのはだれだったのか。原発の事故によって日常生活を奪われた人はすべて、元の生活に戻すのが自治体の仕事であり、それに国と東電が責任を負うべきではないでしょうか。

南相馬市の職員の方にも同じ質問をしました。南相馬市の南、小高区という原発に一番近い地域は10キロのラインのすぐ横です。全市で7万人の人口が、事故直後1万人になり、1年たった今、4万5000人に回復したものの、小学生は事故前の36%しかおらず、若い職員の家族もほとんど市外に避難しているといいます。しかし報道はどんどん減り、支援も減って復旧のめども立ちません。いまいちばんしてほしいことは「忘れないでほしいということだ」と言うのです。

IMGP1343 地元の共産党の議員さんの案内で小高区に行きました。今年4月まで「警戒区域」だったため、立ち入ることもできませんでした。あの防護服を着て1回2時間入ることができただけ。津波の被害もものすごかったのに、遺体の捜索もままなりませんでした。4月に多くの地域が避難解除準備地域というのになり、夜は泊まってはいけないが、昼間は片づけをしていい。稲は作ってはいけないが畑ならいい、ということになり、入ることができたのです。駅前はにぎやかな商店街だったそうです。完全に倒壊してしまった家は国が強制的に撤去しているので、重機が動いていますが、あとはだれもいません。片付けたって住めないのですから、意味がないし、放射性物質で汚染されている震災ゴミを出すところがありません。だれもいない道路にやせた犬が歩いている姿は、映画のようでした。

IMGP1369 干拓事業でつくった広大な田んぼは、津波で冠水し、20億円で作った排水ポンプも破壊されて、だれも水門を開けにこられなかったので、この1年、1メートルもの海水につかっていました。巨大なテトラポットが田んぼのど真ん中に集まって居座っています。時が1年止まっていました。道路の沿線の田んぼにはセイタカアワダチソウがうっそうと茂っています。

宿泊したホテルで、農民組合の方と懇談しました。「確かに東電から補償金は出るが、農家がただ仮設住宅にいても生きる意味がない。希望者には国が汚染されていない地域の農地を買う資金を補助していることが、農民連の交渉の中でわかったが、県がまったく教えない。さんざん交渉してやっとその制度を利用することができた。農民連がたたかっていなければわからなかった」というお話を聞いて、声を上げなければ救われないのだ、とつくづく思いました。

だいたいこの国は原爆症の被害者の救済も、水俣病の被害者の救済も、何十年もたつのにまったく不十分です。だから非核3原則だの、公害終結だのといっても信用されないのです。福島も声を上げなければこのままです。原発なくせの声が大きく広がっていますが、原発をなくす運動は、この被害者の全員救済といっしょにおこなっていくべきだと思いました。今の福島のこの実態を国民に知らせてこそ、怒りは国民共通のものになる。福島を救わなければ、これからもだれも救われない。福島を忘れてはならない、とつくづく思いました。

小高区以外は、普通の生活が戻り、線量計を持っていきませんでしたが、市の発表によれば、市役所周辺や私たちが案内してもらったところは、比較的線量の少ないところでした。それでも0.3マイクロシーベルト/H位のところが多く、確かに住みたくない人が多いというのもうなづけます。私たちができる支援は、この実態を広く知らせること。そしてその中で自分ができることを考えることだと思いました。

IMGP1314 泊まったホテルは相馬市の海岸にあり、民宿が7軒も並んでいた風光明媚なところだったそうです。原発の被害はありませんが、津波で1軒しか残らず、美しい松林も何もなくなってしまいました。残った1軒がこの7月にきれいに直してやっと営業を再開したのだそうです。朝早くに目が覚めてしまい日の出をみることができました。津波の被害のまま残されたとなりのホテルの残骸もこの日の光を浴びていました。