井口まみ
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東京駅復元には市民運動の力があった!

IMGP1442東京駅が創建当時の姿に復元され、たいへんなにぎわいになっています。私も2回も見に行って、テレビの特集番組も録画して見たりしてきましたが、中央郵便局も丸ビルも古い建物が壊されて、ありきたりな高層ビルになったのに、なぜ東京駅だけ高層ビルにならなかったのか、不思議でなりませんでした。新聞に25年前から運動していた人たちがいたことが載り、ぜひその方の話を聞きたいと思っていましたが、その機会にめぐりあいました。私も会員になっている全国組織である「景観と住環境を考える全国ネットワーク」が主催する「神楽坂サロン」です。

たにさn2多児(たに)貞子さん。着物がよくお似合いの背筋のピンとされた方です。たくさんの市民に支持される運動をめざして、創意工夫にあふれた活動で10万もの署名を集め、願いを実現していった様子を、昨日のことのようにお話しされました。

1987年4月に国鉄が分割・民営化され、その月のうちに「東京駅周辺地区再開発に関する連絡会議」が、国レベルで設置されます。この時から高層化が検討されていました。この年の10月、「赤レンガの東京駅を愛する市民有志」として、多児さんをはじめ多くの方たちが赤レンガの駅を残してほしいという意思を表明し、JR東日本に申し入れに行きます。赤いバラの花束を持って。12月に正式に「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」を結成します。筆頭代表は三浦朱門さんと高峰三枝子さんでした。高峰三枝子さんは月1回の運営委員会にも時々顔を出されたそうです。その日は女優のオーラにあおられて会議にはならなかったとか。

1988年1月。三菱地所が「丸の内マンハッタン計画」を発表します。東京駅から皇居外苑までの間に超高層ビルをぎっしり林立させるという計画で、当時「丸の内霊園計画」とやゆされました。もちろん、東京駅も高層化する絵でした。多児さんが当時の模型の写真を見せてくれましたが、本当に皇居の緑の向こうに見事に墓石が並んでいるみたいで、霊園計画とはよく言ったものだと笑ってしまいました。当時は三菱地所が勝手に絵を描いただけだと批判されたのですが、いまになってみると、この絵の通りに高層ビルが立ち並んでいるのです。鉄とコンクリートでもうけたい人たちはちゃくちゃくと手を打ってきたのです。

多児さんたちは署名を10万を超えて集め、国会では首相や大臣たちが「復元すべき」などの発言をします。当時の運輸大臣はかの石原慎太郎氏で「多くの人に喜んでもらえ納得してもらえる処理を」と言ったそうです。JR東日本の常務が国会で「復元する検討委員会をつくる」と明言し、1988年4月国土庁が「東京駅は現在地で形態保全する」と発表しました。わずか1年。すごい!!と思ったのですが、これからがたいへんだったのです。

形態保全とは、完全に残すことだけを意味していないわけで、外側だけ残すとか、歌舞伎座のように高層ビルの一部に赤レンガをくっつけるとか、そういう案が出されていました。それを「このまま残すんだ」と言い続け、たくさんのイベントやコンサート、勉強会を重ねます。毎年2月14日にはJR東日本にバレンタインのチョコレートを届け、懇談をする。この時始めた東京駅写生会は今も続いているそうです。ついに1999年10月、「復原」が決定し、2003年には創建時の赤レンガの外壁が重要文化財の指定を受けます。結局12年かかったのでした。

その後も、創建当時の3階建てでドームにするのか、空襲で焼け2階建てで角屋根にした姿で残すのかが議論になります。実は、空襲のあとお金がない中で応急処置で角屋根にしたのですが、これが創建当時の姿だと思われ「アムステルダム駅」がモデルだ、という根も葉もない話が流布されたので、それはまずい、ドームにするべき、ということになったそうです。最後にたいへんだったのは、屋根に葺く予定だった宮城県石巻市雄勝の天然スレートが津波で被災し、全部スペイン産にするというのを、「被災地を救え」と宮城産のスレートにさせたことでした。いまも現地と交流し、スレート産業復興の募金活動をしているそうです。

会場から質問がありました。「中央郵便局も歴史的な建物で、運動もあったが高層ビルになってしまった。なにがちがったのか」。それに対して多児さんは「鉄道マンの誇りがあったのだと思います」。JRは、最初から残すつもりだったのではないか、それを市民運動が後押しして、国も経済界も横槍を入れられなかったのではないか、と言われました。歴史的建造物は、多くが個人や会社の所有であるため、いくらまわりから残せと言っても所有者の意思が優先されます。そういう意味ではラッキーだったということかもしれません。しかし、この運動がなかったら、やっぱり残らなかったはずです。「もっとこの運動をアピールして、市民が残したんだということを多くの人に知ってもらうべきだ」という意見も出されました。多児さんは「残ればいいのだから」と謙遜されていましたが、直接この地に住んでいたわけでもない人たちが、こんなに多彩な活動を25年間もやってきたことを受け継ぐことは本当に必要だと思います。

私たちも、まちづくりの運動をたくさんやっています。ときにはうまくいかなくて苦しいときもあります。でも、赤いバラを持って、チョコレートを持って、前を向いて歩いていけば、その思いはどこかでつながっていくのではないか。そんな明るい思いをもって、都心から帰ってきました。