井口まみ
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生活保護は減らしていいのか

生保学習会日本共産党川崎市会議員団で、「生活保護基準引き下げと生存権ー『人間の尊厳』が憲法の権利=保護基準を引き上げたドイツに学ぶ」という学習会を開催しました。講師は大阪市立大学の木下秀雄先生。ドイツでは、生活保護基準を引き上げたということを現地で調査してこられた話をしていただこうとお呼びしたのです。

「保護受給者がパチンコ屋の前を通っていた」「レストランに行っていた」…。こんな通報が福祉事務所に来ているという事例が木下先生から出されました。そういえば「生活保護を受けている人が酒を飲んでもいいんですか」という質問が議員団に来たそうです。これはとても危険だと先生は指摘します。「普通の生活とはどういうものか」という基準が見えなくなり、自分より下の人をつくって、自分の大変さを変えようとするエネルギーをそいでしまうことになるというのです。その通りだと思います。

生活保護の基準を下げるというのは、「かわいそうな人が増える」という問題ではない、と木下先生はまず指摘しました。生活保護基準は住民税非課税世帯の計算の基礎になっています。この住民税を基準にして決められている、例えば保育料、介護保険料などは、低所得なのに上がる世帯が生まれます。最低賃金も、「生活保護を上回る」ことを目標にあげられてきていますが、賃金は上がらないのに「生保より上になった」という話になります。

だいたい、いま安倍内閣は物価を上げようとしているのです。なのに、国の「文化的な最低水準の生活」を保障する基準である生活保護基準は下げる。全く矛盾です。つまりいまのうごきは、不正受給者のバッシングと財政難というイメージを国民に与えて、生保基準は下がっても仕方ないと思わせ、どの階層の人たちに対しても「これで生活できるのか」という問いかけをさせないということです。

ドイツでは、低所得者とは、比較の問題ではなく、「普通の生活ができるのかどうか」が基準であり、その判断を裁判所が行い、「現行では低い」と判断したのです。そして最低生活保障は人権であり、誰もが同じように医療にかかり、コンサートに行き、年を取ったらゆっくり暮らす、そういうものだと考えているということです。

いま、孤独死などが問題になっていますが、その根底には多くの場合貧困があります。この問題を放置しておいて、コミュニティに押し付けるのもおかしいと先生は指摘しました。貧困はなくならないのに、保護費を減らすというのは、保護を受けられない貧困者が増えるだけのことで、それで社会の帳尻は合うのか。これを何とかするのが政治家の仕事ではないのか。そう指摘されました。「このままでは社会の底が抜けます。何とも助けられない人が増えます。そうなったらどうなってしまうのか。このことを想像しなければならない。その想像力のない政治家でいいのか」。

ドイツの裁判官が座右の銘にしている言葉を教えていただきました。「もし正義がなければ、国家は、巨大な盗賊団そのものでしかないのではないのか」。聖アウグスチヌスの言葉だそうです。

会場はいっぱいで、私は廊下で聞きました。床が冷たかった。