はつらつレポート

福島県に視察に来ました

2016年4月12日

IMG_6603[1]東日本大震災から丸5年。福島に視察に来ました。2012年7月に来て以来です。議員団11人全員と事務局2人の総勢13人。マイクロバスを貸し切り、今日は福島県庁で原発事故のその後の実態や再生可能エネルギーについてうかがったあと、共産党の県議団と懇談し、午後は、相馬市の被災現場や復興の様子を市の方に案内していただきました。盛りだくさんの内容に、頭も心も一杯いっぱいです。

IMG_6607[1]放射線量は確かに減っています。避難者は16万人から10万人弱になり、仮設住宅は来年度いっぱいで閉鎖されます。被ばく放射線量が年間20ミリシーベルト以下になれば、これも来年度いっぱいで、原発周辺の帰還困難区域以外はすべて避難指示を解除するということも国が決めました。そういう流れの中で県の担当者の皆さんは、県内に移転するのなら10万円補助するとか、たんたんと県の施策をお話されました。でもどうしても、そこに避難したまま帰ることのできない10万人もの人たちの思いが集まっているとは思えませんでした。

昨年5名に躍進した共産党の議員団と懇談して、初めて実態がわかりました。4年前に来た時よりも、避難している方たちはもっと苦しい状態に追い込まれていることがわかりました。たしかに帰ることができる土地は増えているかもしれない。しかし、5年間放置した自宅は、ハクビシンが住み着き、地震でガラスが割れたまま雨が降りこんで床がボロボロになり、住めるうちなどありません。帰ってきたとしても近所に誰もいなければ生活にならない。水道の水もまだ不安で飲めない。そして、避難指示が解除されれば1年後には東電からの生活のための損害賠償が打ち切られます。すでに打ち切られた人たちもおり、生活困窮が深刻化しているというのです。

「政府も県も被害者を切り捨てようとしているというのが実感だ」と言われます。「東電は加害者であり、原発事故を起こしたのは政府の責任。それをはっきりさせなければならない」と力をこめる団長さんの話を聞き、あらためて、こんな政府の下で原発の再稼働など絶対やらせてはならないと思いました。

IMG_6617[1]移動して相馬市へ。津波の被害やその後の様子を見学します。市の職員の方が車に乗り込み案内してくれました。最初に見学したのが防災備蓄倉庫。公募で名前を「兵糧蔵」としたそうです。人口36000人の市で、1万人分の災害用の備蓄をする巨大な倉庫です。いざというとき災害対策本部にでき、シャワールームや厨房、コメの低温倉庫もあります。備蓄に選んだものはあの時本当になかったものでした。毛布は全市で700枚しか備蓄がなかった。だからここには7000枚ある。煮炊きする窯はまきでも使えるようなものを。リヤカーはIMG_6620[1]パンクしないタイヤで。小型の発電機はガスボンベで動くもの。「今すぐここで使わなくても全国に支援できます。全国から支援していただきましたから」と言われます。あの日相馬市の中で10名の消防団員が津波にのまれなくなりました。その方たちの遺影が飾られ、建物の外には慰霊碑が建てられていました。

IMG_6635[1]災害復興住宅は和風建築でした。アパート形式のところもあるそうですが、見せていただいたところは平屋と2階建て。これはいずれ廉価で買い取ってもらうつもりだそうです。12世帯はいれる長屋もありました。こちらは集会室や広い浴場もあり、部屋に孤立させない工夫だそうです。

IMG_6654[1]津波の被害がひどかった海岸を見た後、最後に伝承鎮魂祈念館を訪問しました。津波の恐ろしさを語り継ぐ「語り部」がおられ、五十嵐さんという女性の話をうかがいました。涙涙でもうぐじゃぐじゃでした。「右手に夫が、左手に叔父がいたはずなのに、水の勢いで手を放してしまった。夫がものすごい声で自分の名前を呼んでいった。叔父は2日後に、夫は21日後にみつかった。自分は流されてきた屋根につかまって何とか生きていた。助け出されたことまでは覚えているがあとは、病院で子どもたちの声で目を覚ますまで何も覚えていない…」。「これから何十年先にまた同じことがあるかもしれない。そのときに、先人たちがとにかく逃げろと言っていたと覚えていてほしい」。私はこうIMG_6656[1]思いました。「こんな思いをした人たちの経験を一つでも二つでも聞き、今できる防災は、今必ず、やっておきたい。何とかなるだろうと、愚かな繰り返しをしてはならない」。それは個人としての努力とともに政治の課題としても、です。

あすはいよいよ、原発のすぐそばに行ってきます。