はつらつレポート

福島第1原発の煙突が見えるところで考えた

2016年4月13日

IMG_6667[1]福島視察2日目を迎えました。泊まったところは4年前と同じホテル。4年前のブログを見返したら、民宿7軒の中で津波に耐えたたった1軒で、あの時にはまだ隣に鉄骨だけになった建物が残っていましたが、いまは周りはすっかり更地になり、海の向こうは防潮堤を作る工事が進められていました。

IMG_6673[1]今日は南相馬市の渡部寛一市会議員の案内で、南相馬市小高区、浪江町から双葉町の帰還困難区域ぎりぎりまでせまりました。これらの地域は原発から10キロ地点の避難解除準備地域で、昼間は立ち入ることができ、ようやく始まったがれきの撤去や壊れた家の修復などが始まっています。渡部議員の自宅も原発から12キロの小高区。目の前の震災前に整備されたばかりの圃場はいま、残土の仮置き場として整地されてIMG_6703[1]いましたが、海岸線はいまだに津波の被害を受けたまま放置されている家屋が点在し、3,4年前に岩手や宮城で見てきた風景がそのまま広がっていました。その向こうに原発の煙突が小さいのですが、否応なく目に入ります。

IMG_6690[1]ある地区は、海岸沿いに60軒の集落でした。津波で一軒残らず被災し何人も亡くなり、もうこの地には住めません。市が高台移転を提案し、12か所示して「5軒で一緒に移転すればどこでも整地してインフラも通す」と話し合いを求めてきましたが、建物を建てる費用は自分持ちで、いまさら、と、一人も帰ってくることはなかったそうです。ここに集落があり、生まれたばかりの赤ちゃんも含めて命を落とした人がいることを残そうとお地蔵さまが建てられていました。

残ろうと思っている人たちも複雑です。5年も放置した家は見た目からしてたいへんでした。避難指示が解除になれば補償がなくなります。生活をどうするのか。病院は再開しない。スーパーもない。若い人たちがどんどんいなくなり、スーパーも介護施設も働く人がいないので、再開できないところもあります。

IMG_6743[1]本当に胸がいたかったのは小高区の小学校が仮設校舎を建てている場所でした。同じ南相馬市の原発から30キロ以上離れている地区の中学校に建てられています。4つの小学校が名前を残したまま、合同で授業を行っており、4校合わせて90人程でした。なぜ中学校の敷地に?渡部議員は言います。「30キロ以上離れている地域では、地震の被害では同じように苦しんでいても、なんの補償もなく日々の暮らしに追われている。原発被害者は毎月10万円もらって…という分断が子どもの中にも起こってくるから」だというのです。原発事故から5年。そもそもどの県も地域も本当の市民生活においては震災から復興されておらず、苦しんでいる人が多い中で、さらにそのなかで原発からの距離で生活の苦しさに差が生まれる。国と東電が自らの責任だと自覚してその苦しみに心を寄せないために、こんな分断が生まれるということに、本当に怒りを感じました。

IMG_6745[1]4つの小学校は合同で入学式や卒業式を行い、子どもたちは4つの校歌を全部歌うそうです。中学校の体育館は中学生がずっと使っているため、仮設の体育館もつくれ、と渡部議員が議会で要求し、とても仮設とは思えない体育館ができました。しかしどんどん子どもは減り、今年の1年生は6人。説明してくれた校長先生は、「今はとにかく子どもたちがしっかり学力を身につけて、成長することに全力をあげている」と言われていました。

IMG_6722[1]常磐線の浪江駅前の商店街には、人っ子一人いませんでした。地震で傾いたままの時計屋さん、商品が5年前のそのまま並んでいる衣料品屋さん。時計も止まったままです。ここは津波も来なかった。原発さえなかったら元の暮らしがとっくに戻っていたはずでした。ここにいたはずの人たちの思い、怒り、悲しみを共有せずに政治をしていいのか、と思います。

渡部議員もいまだ借り上げアパートに住み、昼間自宅に戻る生活をされています。昨日県庁で聞いた、来年度いっぱいで仮設と借り上げは打ち切りということについて「どうされるのですか」と聞いたら、「帰れるわけがないのに、そんなこと絶対にやらせない」と言いきっておられました。この気概と市民の怒り、声こそが道を切り開いているのだと思いました。

振り返って私は何をすべきなのか。ここで刻み込んだ怒りを川崎の皆さんに伝えることがまず必要なのだと思います。今の自民党政治がどれだけ国民の命を軽んじているのか。原発事故はこんなに過酷なのに、それを繰り返そうとする愚かさをリアルに伝えること。そして、震災対策も含め繰り返さないための手立てをできる限り行うことだと思いました。