井口まみ
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元市会議員の市村護郎さんが亡くなりました

IMG_2251元川崎市会議員の市村護郎さんが、2月5日、亡くなりました。10日にお通夜、11日に告別式を行いましたが、たくさんの方に来ていただき、故人の人柄が偲ばれました。無宗教形式で花を飾って送ろうという「花葬」という形式にしたのも、ご遺族が故人のことをよくわかっていたからで、市村さんらしい葬儀になりました。

IMG_2249お通夜では、私が市村さんの略歴を紹介し、弔辞はなごみ福祉会理事長の飯島克己さんと、教員になったときに最初に教えた教え子で、のちに自民党の市会議員になった廣田健一さん。告別式には、日本共産党の宮原春夫元市会議員が弔辞を読みました。また、ご遺族が市村さんの最期の様子や思い出を語り、みんなで献花をしました。本当にいいお葬式でした。

会場が小さかったため、受付の部屋には音声が入らず、並んで待ってくださっていた方々には、これらの皆さんのお話が届きませんでした。ご遺族と相談し、お話ししてくださった皆さんの文章を冊子にして配ることになりました。それは多分、市村さんが私たちに言い残したかったことを網羅できるのではないかと思います。私の宝物になると思います。

私がお話しした市村さんの経歴は、長いですが、ここに載せておきます。泣いてしまってかなりの部分が、うまく読めなかったのですが…。

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謹んで、故・市村護郎さんの略歴を申し上げます。私は市村さんのあとを受けて日本共産党川崎市会議員となりました井口まみです。85年にわたる市村さんの生涯のほんの一端をご紹介させていただきます。
市村護郎さんは、1934年7月15日、東京の四谷で生まれました。7月15日は奇しくも日本共産党の創立記念日で、それを誇りに思っておられました。国民学校の4年生の時に、富山県の瑞泉寺というお寺に学童疎開をしました。その時の厳しさ、寂しさはいくつになっても忘れられないと話していました。
東京学芸大学在学中に日本共産党に入党し、1959年、川崎市の教員となり、多摩区の菅小学校に赴任しました。安保闘争のまっただなかで組合活動に熱心に取り組んで、デモに行く行かないで校長とぶつかると、紅顔の美青年だった市村さんを女性の教員が守ってくれたと言います。そのころ恵美子さんとご結婚。由起子さん、進さん、真さんの3人のお子さんに恵まれました。
IMG_2246 11年間の教員生活に終止符を打ち、1971年4月、全市が1つの選挙区で、第2位で川崎市議会議員に初当選しました。日本共産党は5議席から8議席に躍進し、同時に伊藤三郎革新市長が誕生し、市民の暮らしを守る大きなとりでができました。以来8期32年、連続して市議会議員をつとめ、1984年からは共産党川崎市議団の団長となり、革新市政の発展の中心的な役割を果たしてこられました。全国の革新自治体が次つぎと転覆させられた中でも川崎市は22年間、革新市政を守り続け、市民の暮らしを守る大きな成果を上げてきましたが、その政策策定の中心にはいつも市村さんがいました。1994年、伊藤市長のあとを継いだ高橋市長が革新の旗を投げ捨ててしまった時、市村さんは本当に胸を痛めながら、しかし市民のためにと毅然と高橋市長と論戦を行いました。
市村さんは、「市民が動けば政治は変わる」と、いつも市民とともに運動を作り、それを市政に反映させ、実現することに全力を挙げてきました。市村さんの著作「自然遊歩道物語」には、その奮闘ぶりが克明に記録されています。マンション計画は公園になり、たくさんの自然が開発から守られました。多摩区には市民が署名運動をし市村さんが議会で質問して、実現したものがたくさん残されています。温水プール付きの多摩スポーツセンターは実現するまでに17年。中野島駅の橋上化は23年運動をしました。あきらめず、いつも実現の道筋を示し、住民とともに動くのが市村さんでした。京王線の稲田堤駅に急行が停まり、北口臨時改札が始発から終電まで開くことが決まったとき、京王電鉄本社から電話がありました。「毎年毎年署名を持って、市会議員さんが国会議員といっしょに陳情に来られるのは稲田堤の方だけです。なのでほかの駅をおさえて先にやらせていただくことになりました」。こうした運動の先頭にはいつも市村さんがいました。
イベントを組むのも得意な市村さんでした。初当選と革新市政誕生をお祝いするのに共産党に会場を貸してもらえず、やむなく野外で行った野外パーティは、今年で49回を数え、多摩区では区民祭に次ぐような大きなイベントとなりました。浅草に行かなくても多摩区で伝統芸能を楽しもうと始めた「稲田つつみ寄席」は今年で35年です。自然を守る運動はただ口で言うだけでなく、山を探りながら歩く「探歩の会」と銘打って、何百人の人たちとハイキングをしながら世論を作りました。ゲートボールの会を始めたり、旅行に行ったり、いま私たちが毎月のように行っている行事のほとんどは、市村さんが始めたことでした。
2003年4月、32年間の議員を引退しました。ストレスがなくなり、高血圧の薬がいらなくなったと嬉しそうに言っていましたが、直後に食道がんがみつかりました。食道を切除せず放射線治療で直すことにして、6月の私の初質問の原稿は病室で見ていただきました。市村さんと言えば、にこにこしながらちくりと嫌味をいわれるという印象があるのですが、その時は「いいんじゃない。がんばって」と送り出してくれました。食道がんを克服し、元気になられるとさっそく、「マグロは泳いでいないと死んじゃうが、自分も動いていないとおかしくなる」と、回遊魚のように、今度は福祉の分野で力を発揮されました。現職の時から、障がい者施設と保育園を運営するなごみ福祉会の理事をされていましたが、議員退職後副理事長として、その運営に携わりました。なごみ福祉会は、最初は障がい児もいっしょに育つ小さな保育園から始まった社会福祉法人ですが、現在川崎市と世田谷区に保育園などこどもの施設7か所、障がい者施設を23カ所持つ大きな法人となりました。国も川崎市も社会福祉の予算をどんどん削り、その運営が厳しくなっていく中で、なごみ福祉会の「ともに生きともに育つ」「障がいがあってもなくてもこの地域で暮らせるまちを」という理念を守り、市村さんは利用者の皆さんも職員も温かく見守ってきました。2年ほど前に理事長も副理事長も若い世代の方に交代し、肩の荷が下りたことと思います。
自宅を川崎市から稲城市に移し、多摩川から昇る朝日をながめ、富士山に沈む夕日を眺められるマンションに引っ越されたと思ったら、あの姉歯事件の当事者になるという思わぬ事件もありました。ここでもその手腕が発揮され、多くの住民の皆さんの窮地を救うこととなりました。市村さんをテレビで見たという人たちから、たくさんの励ましが来たと言われていました。稲城市の市会議員団ともずいぶん力を合わせて運動をしておられたことも、すぐ隣の町から拝見していました。
60歳を過ぎてから山登りを始め、奥さんの恵美子さんと南アルプスも歩いてきました。これは同じように南アルプスを走破した不破哲三さんに対抗意識を燃やしたのではないかと思っています。実はこっそり負けず嫌いなのでした。そして、資料の整理は完ぺきでした。今日、ロビーで皆さんに見ていただいているアルバムは、市村さんがご自分で整理したものです。
私は、市村さんのあとを受け継いで16年がたち、5期目となりました。「議員としてやるべきことをやっていれば落ちることはない」といつも言われましたが、なにをすればいいのか、困ったときに思うのは、「市村さんならどうするだろう」ということです。その時その時の羅針盤はいつも市村さんでした。わからなかったら聞きに行きました。もう聞きに行くことはできません。でも、一生懸命考えて、頑張っていきたいと思います。徹頭徹尾、科学的社会主義を学び身につけていた市村さんにこんなことを言ったら笑われるかもしれませんが、これからはそちらの世界で懐かしい人たちと楽しく過ごしてください。でも私が困ったら夢に出てきて教えてください。
市村さん。長い間本当にお疲れ様でした。これで略歴のご紹介とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。